もしも周囲の人間に、自分は絶対に正しいというワンマン企業の社長サンやカースト制度の頂点に君臨するお偉い教授様然とした方がいらっしゃったら、その方のバックの中や机の上にでも、そっと本書を忍ばせてみてはどうでしょうか。もしかしたら、人格カイゼンの効果が期待できるかもしれません。
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本書はこのように語っています。
いま、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見きわめや美醜の判断は、それほど普遍性をもつものではないかも知れない、ということを常に忘れないことが大切です。それは言い換えれば、自分の常識を拡大適用しないという節度を保つことです。私たちにとってナチュラルに映るのは、とりあえず私たちの時代、私たちの棲む地域、私たちの属する社会集団に固有の民族史的偏見にすぎないのです。
世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。
このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは40年ほど前、1960年代のことです。
構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。
このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは40年ほど前、1960年代のことです。
構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
このように、構造主義という哲学・思想を軽い語り口で語る本書は、オレ様人間に自己を見つめなおす契機を与えるだけでなく、誰が読んでも何らかのヒントや気付きを得られるようなよい出来に仕上がっております。又、構造主義という何だか物々しい感じに及び腰の方は、内田樹のウチダ節が炸裂しており、とっても軽い文体になっておりますので、御安心下さい。






